吉田松陰と高杉晋作〜萩・津和野に学んだ維新の原点

東京都トラック協会壮年部機関誌「ひびき」2005年11月29日号

荒川支部 湯田 啓一


 本年の温古創新セミナーは11月18日〜19日山口県の萩と島根県の津和野をおとずれ、吉田松陰と高杉晋作の生涯に学んだ。

 あいにく長井本部長は風邪による発熱で参加できず、ちょっとさびしい研修となってしまったが、病をおして羽田に見送りに来ていただきました。

 一路宇部山口空港へ行き、そこから貸切バスで萩へ向かい、九州の陸災防の大会に出席された鈴木健之副本部長と江守東城東支部副支部長と合流した。

 昼食の後、萩焼窯元「萩蓮明」を見学。江守副支部長のご紹介で、守繁徹氏のお話を伺う。陶器と磁器の違いや、材料の土や釉薬の説明、井戸焼きの美しさを鑑賞させていただき、「父のようになるにはまだまだ20年は修行です。」のことばに、芸術の奥深さと伝統を継承する男のきびしさを見た。

 昨年11月に開館したばかりの萩博物館では、道迫研究員より、「吉田松陰と高杉晋作〜師弟関係に見る維新の原点」と題した講義を伺った。江戸時代末期の動乱の中に松陰は諸国を遊歴し、世界の情勢とその中での日本のあるべき姿を考え続けた。旅行も個人の自由にはならない時代の中にありながら、九州から東北までを歩き見聞を拓いたそのすばらしい好奇心と行動力に驚く。一点の私利私欲もないその姿勢は30年という短い生涯ではあったが、関わった多くの人々に感銘を与えた。

 「今の幕府も諸侯ももはや酔人なれば扶持のすべなし。草莽崛起(そうもうくっき)の人を望むほか頼みなし」と身分を越えた志ある民衆の決起による世界の変革を訴えた。

 一方、松下村塾に学んだ高杉晋作は、その才気と一歩も譲らぬ交渉力で、幕末の激動期に翻弄される藩の危機を救い、既成の軍隊に行き詰まりを感じた起死回生策として、身分にこだわらず「有志の士」をつのって奇兵隊を結成する。奇襲遊撃戦を能く戦い、長州征伐に来た幕府軍を打ち負かし、倒幕の旗手となる。

 晋作の心の中にはいつも松陰の教えがあり、獄中に入れられた時でも「先生を慕うてようやく野山獄」と詠み、同じ獄にあった松陰の思い出を重ねて励みとしている。

 松陰は29才で江戸で処刑されて死ぬ。晋作も27才に病死。現代から見ると早い死であったが、大きな志を掲げた人生は、激動の時代を存分に駆け抜けた。

 夕食後の懇親会に参加していただいた守繁徹氏が歌われた「吉田松陰」は大変心のこもったもので、松陰がいかに萩の人々に敬愛されているかが伝わり感動した。

 翌日は松陰神社を見学したが、正面に掲げられた「明治維新胎動の地」という碑は、伊藤博文、井上馨、山縣有朋といった明治政府を支える重鎮を輩出した松下村塾の、まさに松陰が歴史に与えた役割の大きさをあらわしている。激動の時代には、「地方から」「若者の中から」時代を変革し切りひらいていく者が生まれてくるのではないだろうか。

 今回の研修では、吉田松陰と高杉晋作の師弟関係を学び、萩焼の窯元を受け継ぐ江守徹氏とその父上江守栄徹氏との関係のなかに師弟関係のすばらしさを感じることができた。

 2日目の昼食は、西の小京都津和野に足を運び、鯉の泳ぐ堀割りと武家屋敷の面影の残る美しい町並みを散策した。途中立ち寄った北斎美術館では、幕末に江戸を中心に活躍し、国内をはじめ遠く西洋の印象派やピカソなどにも多大な影響を与えた絵師葛飾北斎の作品の中に、芸術の世界で時代を切りひらいていった男の志を感じ、また美しいカトリック教会では、幕末のキリシタン弾圧「浦上四番崩れ」により乙女峠に流され迫害されたキリシタンたちの歴史を知った。

 幕末から明治維新にかけての激動の時代を生き、そして死んでいったいろいろな人の様々な人生を思い浮かべ、決して平穏とはいえぬ今の時代を生きる者としてどのように次の時代を切りひらいていくべきなのだろうという思いを胸に帰途についた。