◇温故創新セミナー

百年前、アメリカにNOと言った男

小栗上野介終焉の地を訪ねる

湯田啓一 [荒川支部 日東通運]

 秋空の下群馬県倉渕村を訪ね、幕末の知られざる偉人小栗上野介忠順(おぐりこうづけのすけただまさ)の生涯を学んだ。

 小栗上野介は、遣米使節の一員としてワシントンを訪れ日米修交通商条約を批准し、あわせて通貨・為替交渉を果たすなど日本の外交の基礎を築いた人物である。実はあの名高い勝海舟の咸臨丸は随行船で、小栗達の乗る米軍艦ポーハタン号が正使であった。

 アフリカ、アジア経由で帰国した小栗は、外国奉行、勘定奉行を歴任、アメリカで見聞した株式会社制度、造船所・製鉄所の建設、軍制の改革などをつぎつぎに計画し、実行に移していくが、時あたかも大政奉還・倒幕の勢いの中で斬首され、歴史のすみに埋もれてしまった。勘定奉行が幕府から罷免され群馬県へ土着したことから憶測をよび徳川埋蔵金伝説といううわさ話に名をとどめるのみであった。

 小栗が建設した横須賀製鉄所(現在の米軍基地)は、日清日露の戦争で活躍した軍艦を生み出し、日本近代の歴史に大きな役割を担うことになる。大隈重信は「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから。」と語ったといわれる。歴史上非業の死を遂げた人物は多い。もし、小栗が生き続けていたら日本の近代の歴史はもっとゆるやかに民主主義への道をたどっていただろう。そんな感慨にふけりながらの「温故創新」、現代の小栗を決して死なせてはならないと心に刻んだ。

 翌日は、伊香保の徳富蘆花記念文学館、竹久夢二記念館を見学し、明治大正を生きたそれぞれの人生と芸術をたどった。特に竹久夢二の名作「黒船屋」を木暮館長の心のこもった解説付きで鑑賞できたことは貴重な体験であった。

 なお、記録写真を下記のホームページにのせてありますので、ご覧ください。

http://www.tcn-catv.ne.jp/~Yuda/0109onko/0109onko.html

※上野(こうづけ)=上毛野(かみつけの)の略。現在は”こうずけ”が用いられるが、当時の仮名で記載した。

東京都トラック協会壮年部機関紙「ひびき」2001.10.20 No85 より転載

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